実は、思わずニヤッとしてしまう時計ブランドだった?!本国No.2ニコラス氏が語る「H.モーザー」とは?
皆さま、こんにちは。谷です。
コートが手放せない時期となってきましたが、いかがお過ごしでしょうか?
寒暖差が激しかった日々が終わりを告げ、本格的な冬が到来しました。秋の紅葉も終盤に差し掛かり、次の季節が待っていますね!
12月いえば色々とイベントが待っている時期ですもあります。私は今年は、島根県に帰ろうと計画中です。
雪の中で、犬と共に思う存分遊び尽くしたいと思います笑
さて、今回は「H.モーザー」についてお話をしていきたいと思います。
実は、昨日H.モーザーのNo2ニコラス氏にご来店いただき、色々お話をお伺いさせていただきました。
今回のブログは思わず「えっ!H.モーザーってそんなブランドだったの?」と思ってしまうような内容となっております。
モーザーファンの方にも、これからモーザーを手にとっていただく方にもぜひ読んでいただきたい内容です!
今回は、「H.モーザー」の歴史をお伝えしていきます!
脅威の生産本数!?昔のH.モーザーはヨーロッパでは名の知れた時計ブランドだった?
現在のH.モーザーは2005年に復興した時計ブランドですが、本当の意味でのブランドのスタートは、1828年。
このブランドを立ち上げたのはスイス・シャフハウゼン生まれの時計師であり、実業家でもある『ハインリッヒ・モーザー』(1805年~1874年)です。
スイス・シャフハウゼンに生まれた『ハインリッヒ・モーザー』は、時計師の家系に生まれ、彼もまた幼い頃より時計師になる事を目指していました。
彼は願い通り時計師となり、スイス、ジュラ地方のル・ロックルに移り自身の工房を持つことになりました。
彼が作る時計はスイス以外の国からの評価も高く、ロマノフ王朝(現在のロシア)の皇帝へ献上する置時計の製造を行うなど20代にして高い評価を得ていました。
あったり(2019年の写真)と当時いかにH.モーザーの時計が浸透しているか分かりますね!
時計について学び、国内外から高い評価を受けた『ハインリッヒ・モーザー』は、生まれ故郷であるシャフハウゼンに戻ります。しかしながら、シャフハウゼンの時計師協会は『ハインリッヒ・モーザー』が戻ってくることを拒みました。
実は、当時の職人たちは閉鎖的な空間であり、地元以外で高い評価を得た『ハインリッヒ』のような若者を受け入れる文化が整っていませんでした。
地元シャフハウゼンに戻る事をあきらめた『ハインリッヒ』は、かつて時計の製造で高い評価を得た『ロマノフ王朝』(現在のロシア)に向かいます。ロシアの中でも、西側に位置するロシア第2都市『サンクトペテルブルク』に渡り1828年に『H.モーザー』を創立します。
彼は、とても凝り性な性格だったことで、複雑時計や様々な装飾を施した時計で成功しました。
スイスから離れロシアで成功した「ハインリッヒ・モーザー」は、翌年の1829年に再びスイス・ル・ロックルに戻り、販売航路を増やすために工房を建てました。
その後、H.モーザーの時計は、ヨーロッパ、アジア、アメリアと大陸を渡り、多くの人々に知られることとなりました。第2の故郷ロシアでは、軍用時計の製作を行ったりしています。
工房があるル・ロックルでは、地域の雇用を生み出し、技術・地域の発展に貢献したことで『ルロックル名誉市民』の称号を与えられました。
シャフハウゼンに戻る?!その理由とは?
そのようにして時計の製造を行い続け、称号や賞を受賞していく中で、1848年『ハインリッヒ・モーザー』はうまれ故郷であるシャフハウゼンに戻ることが出来ました。
しかし彼はただ地元に戻るだけではなく、時計を時計を工業化することで、街を発展させようと考えました。というのも、1840年頃隣国ドイツでは第2次産業革命が真っ只中であり、それによる産業の発展やを見ていたのです。
シャフハウゼンは自然が豊かなライン川に位置します。ライン川の水の勢いに着目した『ハインリッヒ・モーザー』は水力発電を提案。運河を建設し、電気を安く提供する事で街の発展を願いました。
しかし、簡単にはいかず、地域の政治家たちが反発。街の発展を諦めるしかない状況になりましたが、市民が立ち上がり計画に賛同。結果、計画が進む事となりました。
電力が工場に供給されることによって、安定的に工場を動かすことが出来るようになりました。ハインリッヒは新しい事業として鉄道車両製造の工場やチューリッヒ地方(シャフハウゼンから南に約35㎞)への陸路の開拓、時計学校などを建てました。
また、1865年にはスイス最大のダムを建設し、低価格で電力供給が工場に行えることから国外の工場の流入も受け入れました。そんな工場の中には、IWCの姿もありました。
また、IWCの誘致をしたのは、「ハインリッヒ・モザー」と言われているんだ!
彼は、ル・ロックルにも若かりし時に住んでいたからね。
1874年にハインリッヒが亡くなり、その後1904年、1917年に起きたロシア革命によって財産の没収。その後もスイス・ルロックルでは操業していたものの、1969年~1970年代においてはクォーツショックが重なり、1979年には廃業してしまいます。
その上、作った時計の本数は40万本と言われており、当時のヨーロッパで、どれだけ大きく、有名な時計会社だったのか分かりますね!
約20年の時を経て再復興~現代のH.モーザーとは?~
廃業になり、時計をつくらなくなり約20年が経った頃、IWCから手助けが…。
1868年に創業したIWCは、『ハインリッヒ・モーザー』が土地の提供や電力供給でバックアップを行いました。その恩返しなのか当時IWCの技術部長だったユルゲン・ランゲ博士とハインリッヒの曾孫にあたるロジャー・ニコラス・バルジガーの手によって2002年に再復興されました。
約4年の歳月を経て、こだわりの強い技術者であるランゲ博士によりハインリッヒの思想や感性などが反映された腕時計たちが発表されました。
時計が好きで、復興の流れは極自然なこと。僕もこのブランドの前は宝飾関係で勤めていたけど恋に落ちてH.モーザーのファミリーにジョインしたんだ!
しかしながら、時計をつくる事に長けていたランゲ博士は、経営には全く向かず、業績は芳しくありませんでした。
そんな中2012年にスイス有数の時計師一族メイラン家の一人ジョージ・ヘンリー・メイラン氏が率いるMELBホールディングスにより回収され、ジョージの息子であるエドゥアルド・メイラン氏がCEOとなり現在に至ります。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
H.モーザーはただ華やかでこだわりのある時計というだけではなく、今回ご紹介した内容はほんの一部で、わずかでしかないことには変わりません。
さらにH.モーザーに15年以上いるニコラス氏からはもっと色々面白いお話や歴史、時計にしかけれた遊び心などお話を聞くことができました。
個人的にニコラス氏のお話を聞いて思ったことは、遊び心を忘れない・楽しく時計を作ることをモットーに、取り組んでいらっしゃるのを感じました。
特に9月ごろに発表されたパッションフルーツの時計はH.モーザーの代表のエドワード・メイラン氏とスタディオ・アンダードッグ社の代表リチャード・ベン氏のインスタグラムを覗くと、時計発表前の広告が非常にユニークでH.モーザーらしく「目がキラキラっとスパークするような」楽しさを感じます!
お時間ある時に一度ご覧くださいませ。
ぜひ、オオミヤにも遊びにいらしていただきH,モーザーを含め機械式時計の面白さを体感してみてください!
皆さまのご来店をスタッフ一同お待ちいたしております。
時計情報
ブランド:H.モーザー
モデル:パイオニア・トゥールビヨン アークティックブルー
品番:3804-1208
ケースサイズ:40㎜
ケース厚さ:10.4㎜
ダイアル:サンバースト仕上げを施したアークティックブルーフュメダイアル
現価格:8,932,000円(税込)
ブランド:H.モーザー
モデル:パイオニア・トゥールビヨン メガ・クール
品番:3804-0901
ケースサイズ:42.8㎜
防水性:12気圧
ケース素材:18Kレッドゴールド/チタン(ブラックDLC)
現在の価格:10,714,000円(税込)
また、当店では現在、 ウィンターフェア2024 を開催しております。※12月29日(日)までの開催となっております。
期間中は、各ブランド2024年の新作モデルや人気の定番商品が多数店頭に揃っております。
この機会にぜひ、oomiya心斎橋店へご来店くださいませ。